About Me

About Me

国際🇳🇱🇯🇵アラフィフ晩婚・子なし・身長差50cm 夫婦の日本人妻。 
1974年生まれ。いわゆる氷河期世代。

昭和の詰め込み教育最終期世代だが、あの教育システムを「悪」とは思っていない人間。
むしろ割と支持派、私のこれまでの人生にあの公的教育システムと学んだことは大いに役立ったと思っている。

中国地方の山間部の都市で小中高と公立校、塾や予備校にも行っていない。習い事は習字とピアノという、普通の「昭和の子供時代」だった。

ちなみに高校卒業までに外国人などほぼ生で見たことがなかった。高校で英語の外国人助手の方が3年間で1回か2回クラスにいた「気もする」程度。もちろん、英語は古き良き「文法・読解一辺倒とにかく記憶」で、スピーキングはおろかリスニングすらやった記憶がないまま、大学に進む。

大学も一般教養では英語は必須だったものの、担当の外国人講師が英語を喋っているだけでなぜか笑いが込み上げてきてしまうほど、英語を話したり聞いたりすることに慣れておらず、なんなら外国人は怖いぐらいに思っていた。

結果、大学時代も英語をまったく勉強すること無く、いまだになぜ単位が取れたのかはわからない。
実は英語だけではなく、大学時代の私はお恥ずかしながら全科目全単位なぜ取れていたのか自他ともに首をひねるほど、ひどい学生だった。

大学4年間、ほぼ毎日大学に行ってはいたが講義やゼミではなく、9割がたサークルの部室にしか入り浸っていなかった。ちなみに、漫画アニメ研究会である。当時は会場が晴海だった「お盆と年末のビッグイベント」の日には会場内を駆け回り、なんなら自分で薄い本やらを作って売ったりなどしていた黒歴史すらある。

20代

大学卒業後、自衛官8年。
小中高と公立で大学国立ときて、とどめに就職先まで特別職国家公務員だ。どこまでもPublicで生きてきた人生。

ちなみに、大学4年時も就職活動を一切していない(当時はインターンなど無く、リクルートスーツの就活も、4年時の春から一斉、なんちゃら診断やらかんちゃらテストやらも無い)ので、ほんとうに民間企業で働くということを全く知らない人生なのだった。

英語が私の人生に入ってきたのは、ここの時点。
4年の春にふと思いついてすっかりその気になった「陸上自衛隊」で一般幹部候補生として入隊し、21歳かそこらでいきなり小隊長、部下15人とかの異世界暮らしになった。

自衛官となれば国際支援活動もあるかもしれぬと、突如英語の勉強を始めた。もともと文法・読解は古き良き英語教育できっちりやっていたため、そこは特に困ることはなかったが、耳慣れ・口慣れはゼロからだった。

30代

米国自費留学のため、8年勤めた自衛隊を退官。退官時の階級は1等陸尉。
なんだかんだで同期の女性幹部自衛官の中では意外と後まで残った方になっていた。

TOEFLやらGMAT(受験料、当時1回$250!)やらを何度も受ける金銭的余裕はないので、一発勝負で取れたスコアで出願し、NYCのウォールストリートの真横にある私立大学のMBAコースに入学。
(ちなみにこの大学はかつてはワールドトレードセンター内にも教室があり、犠牲者がでている。)

留学準備やら、入学金・授業料すべて自力自費でやった。20代必死でためた貯金と退職金なら泡のようにすぐ消えた。
ただ、当時は国連本部から川を挟んですぐ向かいのロングアイランド、が医学まで地下鉄1本で15分という好立地でもルームシェアで月$600程度で良い物件に住めたのはありがたかった。

そして、1月入学だったので翌年の12月には単位も全て取得、卒業というところの2008年11月、リーマンショックからの世界金融危機勃発。
そして、我が大学はウォールストリートの真横である。文字通り首を切られて段ボール箱抱えて出ていくウォールストリートの証券マン達がぞろぞろ歩いていく光景を横目に、非米国人留学生のクラスメートの就職なぞ一網打尽。私もいくつか日系企業の面接を受けても、結局結果を待っている間にその事務所が撤退を決めて閉鎖という状況で、これはもう帰国あるのみかと観念仕掛けたその時。

奇跡的に、とある某日系超大手新聞の記者として採用が決まった。

勤務地は首都ワシントンDCということで、クリスマス前の寒空荷物をまとめて引っ越し、ホワイトハウスの文字通り真裏にあるオフィスで勤務開始。
この時、私とほぼ同時にDCに引っ越してきたのが、大統領就任直前のオバマ一家だった。

経済記者として、アメリカ経済のどん底から回復、そしてDCの街が様変わりしていく様子を眼の前で見ることができたのは貴重な体験だった。現役大統領にはお目にかかれなかったが、ランチタイムから帰ってきたオフィスのビルのエレベーターが開いたら、そこにクリントン元大統領が立っていたのはびっくり仰天した。脊髄反射で握手をしてしまったが、お相手もにこやかにすぐに手を伸ばしてくれるのはさすがだと思った。

一応アジア最大の経済誌(らしい)で、世界の経済的重大事に米経済担当記者というなかなかに重圧な仕事(ペーペーとはいえ)で、自分が書く数字一つで大げさでなく日本経済が即反応する、まして間違えたら。。。と冷や汗をかきながら毎日記事を出し続ける日々はストレスもありつつ充実していたし、35過ぎてからいきなりヒップホップダンスを始め、週20時間レッスン受けるぐらいに打ち込みきっていた。おかげでダンスコミュニティーにどっぷり入り込み、友人も数多くできた。が。

40歳直前で、日本に帰ることを決めた。

最大の要因はグリーンカードを取ることができないということで、将来的には仕事を辞めたらどうなる、その時もう高齢者で日本にいきなり帰れと言われても。。。という将来どころか、今この瞬間だってビザがなくなればすぐ出国という不安定さが嫌だったこと。

そして、まぁ、毎日気楽にすぐに大根食べれる環境が恋しくなったのだ。車で1時間以上かけて郊外のチャイニーズやコリアンスーパーまではるばる大根買いに行くのが、もう疲れたのだった。
40歳、ぎりぎり今なら日本に帰っても再就職はできるのではないか、ここが決め時の限度だろうと思った。

40代

日本帰国後、就職するまで期限無制限の休みと言えば休みなので、せっかくの機会にと帰国3日後に四国遍路を歩きに出発した。一周して価値がんした後も勢いのまま高野山やら京都・奈良やらの寺を巡って歩き、都合80日間ほど歩き旅をした。

ちなみに、この時までハイキングや山歩きは趣味でもなんでも無かった。
ま、20代はそれ&ランニングは仕事の一部のようなものだったのだが。。。
この歩き遍路があまりにも楽しく、ここから私の長距離歩き、ハイキングライフが始まる。

そして、歩いてゆっくりと見て回った四国、特に徳島が気に入り、移住。
もともとNYC・DCと都会の真ん中に暮らした後の帰国後は都市部に住むつもりはなく、地方で女一人がほそぼそと生きていける仕事があれば十分だと思っていた。

ちょうど私が特に気に入った地域で、やりたいと思っていた業務内容だった、地域おこし協力隊を見つけ、3年満期勤めた後、個人事業主になり協力隊時代からご縁ができた観光業界・翻訳関連の仕事をいろいろ請け負っていた。

そんなある日、山の中で拾ったもの

さて、徳島移住して初めての秋、私はたまたま所要で近所の山寺に車で向かっていた。

お寺までもう少しという山の中の道端に2m超えの巨神兵(オランダ産、4つ下)が落ちており、ひょんなことから拾うこととなった。

ちなみに、日本人内ですら知名度が底辺な四国だが、四国遍路ブームで、春と秋には意外な数の外国人(特に欧米豪)が山の中にいる。

拾ったと言ってもそのまま飼うことになりましたでもなんでもなく、この巨神兵はその後も普通に四国を一周した後、普通に母国に帰り、一年に1〜2度メールのやり取りをする程度の友達とも言えない「お知り合い」の交流がほそぼそと続いた。メールが来る時以外は、ほぼ存在を忘れていた。

だが数年が過ぎたある日、私の仕事絡みで協力してもらったきっかけで、初めて何週間か毎日のようにゆっくり話す機会があり「実は趣味も価値観も気も合う」事を発見する。
お互いもういい年で自分の好みや生き方、生活スタイルもわかっており、「一生独身謳歌」で気楽に生きていくつもりだったが、一転計画変更。「独りでも楽しい、二人でもなかなか楽しい」と、40代後半で電撃晩婚する。

50代突入の今

件の山の中に落ちていたと巨神兵と子無し夫婦2人暮らしを仲良く続けている。

私は仕事も1年に片手に余る程度、知り合いから頼まれればこじんまりした翻訳仕事をする程度なので、ほぼ無職。
家事すらしていないので、主婦ですらない。
毎日マンガを読みながらのんべんだらりと暮らしている。

フリーランスのITエンジニアである巨神兵は、パソコンとネット環境さえあれば世界のどこにいようと変わりなく仕事ができる。
幼少期からパソコンと共に生きてきた根っからのIT大好き人間なので、仕事=好きなことをやってる感覚で、忙しい時は1日中寝る意外はずっと何時間でも楽しそうにパソコンに向かっている。

よく言われる「オランダ人はワークライフバランスを重要視〜」という文言はいったいどこの世界の話だろう?
私の眼の前にいるのは、れっきとした生粋オランダ人のはずなのだが。

本人曰く「好きなことが仕事になってるだけだから、いくらやっても苦にならない。自分にとって苦にならない楽しい事をやればやるだけ収入も増えるのにバランス取る必要ある?」
私もその考え方には大いに同感だ。

ワーク(=好きなこと)ばかりやっているからと言って、それ以外はまったく念頭にないというわけではなく、フリーランスである理由は「自分で時間のコントロールができるから」だそうだ。つまり、クライアントの求める結果以上の結果さえ出していれば、1日24時間いつでも自由時間、なのである。

お陰様でIT業界の中でもそこそこ貴重なスキルの持ち主のようなので、売り手市場、強気でクライアントに要求できるので、完全リモートの仕事以外は受けない。故に私達に常に家に一緒にいて、家の用事は二人で適当な時にやっている。
気が向いた時に、自分で仕事のペースを調整して「ちょっとハイキング行こう」「ちょっと旅行行こう」というのができるので、私が仕事をせずに常にフリーでいる方がむしろ都合が良いのだ。(ちなみに旅行中や長距離ハイキング中も私達は二人ともバックパックの中にパソコンを持ち歩いている。)
そんな働き方なのに、頻繁に日本なら年収と言われてもおかしくない額を月収で叩き出すのが本当にすごいと尊敬している。

夫も日本の生活が好き、むしろオランダより快適と思っているので、私達は毎年数ヶ月単位でオランダと日本を行き来している。日本とオランダの二拠点生活をしていると言っていいだろう。

日本の住民票は抜いていないので、両国に住所があり、当然のことながら税金や社会保険料は両国に2重で払っている。オランダは持ち家だけれども、日本の家は借りているので、いない間も家賃は払い続けている。
以前は日本にもオランダにも家を持っていない状態の時もあり、2人で日蘭各地を旅行しながら連続約500日間ホテル暮らしをしていた。

Contact Info

お問い合わせ等は、こちらのメールアドレスまでお願いします。 mountainpenguinp [at] gmail.com